まずは自助が大事、次は共助
はい、おはようございます。僕です。みなさん自助してますか。僕は自助できてません。自助(自殺)しないといけないのに全然自助できていません。政府もスローガンとして掲げている自助ですが、いざ自分で自助しようとなるとなかなか難しいものですね。
内閣府の試算をもとに計算すると、世帯の総収入が890万~920万円を超えるまでは『受益超過』となります。所得がそれ以下の世帯はいわば『社会のお荷物』です
どこの引用だか忘れましたが、その昔こんな発言がどこかであったりしました。まあ言いたいことは貧乏人は公的サービスを食い物にしているって話です。だからこれ以上サービスを受けようなんて贅沢だし、自助でなんとかしろってのが現実なわけです。今流行のGoToなどは貧乏人向けたサービスではなくて上級国民様が安心して経済を回していただけるようにでたサービスだったりするわけですね。それを上級国民様以外が利用するからお客様のサービスの質が低下したとか、日本人の醜い姿があらわになったなんてニュースで取り上げられてしまうわけですね。
上にあげた引用からしてもすでに公的サービスをとんでもないぐらいに食い物にして僕は生きているわけです。その中で生活が苦しくなったとか生きていけなくなってきたと僕はぴゃーぴゃー喚いているわけです。そうなった時にやるべき自助ってなんだろうってなるのですよ。
どういう形であれ社会で生きてしまっている以上恩恵を受けてしまいます。しかしながら、自己責任の世界で這い上がれずにあがいていっても税金を支払う能力も足りない、社会保障費の割合をあげるだけのお荷物になってしまっているわけです。どうしたらそれを解決できるのでしょうか。
「できるだけ人に迷惑をかけないように生きようとすれば、自分の持っている何かをそぎ落として生きていかなければならないのです。限界まで来てしまったら、自分の命をそぐしかないのです」(毎日新聞大阪社会部取材班『介護殺人 ~追いつめられた家族の告白~』(新潮文庫)より)
僕はこれだと思うのです。僕はこれこそ自助の形だと信じて疑わないわけで、呪いでしかないんですよ。どうするか言われたらそうするしかないわけです。選択肢ってそれしかないわけだから。
人生は配られたカードでしか戦えないと思うのですよ。
なんとかして誰にも迷惑をかけずに生きていくにはそれなんだろうなって思うのです。ちょっと昔に「男性の自死」が急増しても話題にならないなんてありましたが、話題にならないのは多分それが今の社会であるべき標準の姿として受け入れられたからなんだろうなって思っています。
だから……今やるべき自助ってそういうことなんだろうなって――