コミュ障だから明日が僕らをよんだって返事もろくにしなかった

何かを創る人に憧れたからブログをはじめたんだと思うよ

わがはいは『自己正当化しないとブログを書けないひと』である

ようこそ自己欺瞞のセカイへ

悲しいかな、未だ夢を見ているから主語を大きくして自己を正当化してしまう。現実を直視できないから耳心地の良い比喩を並べてしまう。
理解してほしいと愛情に飢え、こんなにも辛いと感情に訴え、助けてほしいと聴衆に伝える。

画面の前にいる名前も知らない誰かに発破をかけないと生きていけない。同調をもとめ自分をだまし誇大妄想を続けないと生きていけない。
自分には共感者がいる、味方がいると信じないと生きていけない。自分の招いた生き辛さを他積することでしか生きていけない。

何者にもなれない生き辛さから逃れることはできない。積み上げたものなんてないくせにイキることしかできない。
あの頃、「もしも~だったなら」そんなものは存在しない。問い詰めれば「いまはどうなの?」それでおしまい。


なんでもない人間は何者にもなれない。社会一般で言う普通にすらたどり着けない。否定と罵声の中で目立たないように死ぬしかできない。


だからこそ、自暴自棄のナイフが何者にもなれない自分を苛む。「生産性のない」自分が社会に存在しているという事実が心を蝕む。
才能、センス、経験値、努力、感性……できないもっともらしい言い訳を並べる。死んだほうがマシだということに未だ気づけずにいる。

生きる価値を否定された社会で、生きるためにイキる以外の自己防衛を自分はまだ知らない。


つながりのない世界の終わらせ方がわからない

自分は「普通」という特別な存在に憧れすぎているんだと思う。だからこんなことを度々書いてしまう。

ある人は、取るに足らない人間でも文章を書き続けていれば誰かの支えになるとか言うんですけど、自分も救えない人間が誰かの支えになるなんてエゴだと思うんですよね。そんなことをするぐらいならさっさと命を絶つ方がよほど社会のためってね……。今まで社会に生きる必要ないって言われ続けてきたんなら、それはもうそういうことなんですよ。生産性がない人間、ローパフォーマー人間、社会不適合者、皆々違いはあれど人の本質は変わらない。

最近思う、このどうにもならないソーシャルを終わらせる一つの手段が無敵の人なんじゃないかなって……。ネットは趣味でもなんでもないただの依存だと分かっているから終わらせようとする。方法がどうであれ、それを断つことができる。終わらせられる。

何かに救われる人がいて、そうでない人間もいる。それだけなんだ。自分がその世界に平等を見出せるのは、どんな人間もいつかは死ぬということだけだ。悲しいかな、未だ夢を見ているから自意識の電源を落とせずにいる。