コミュ障だから明日が僕らをよんだって返事もろくにしなかった

何かを創る人に憧れたからブログをはじめたんだと思うよ

無能な人間が一年間生き延びたという事実だけが残った

どうにか生きる理由を探す一年だった

この一年で僕はどうにもならならなかった。

僕がブログを書いているのはただ生きた痕跡を残すためだ。それだけのためにブログを更新している。実に滑稽だ。日々自分はこの世界で生きていいものなのか、社会で有益な存在になれるのか、そんなことを考えながらこの多分につまらない駄文を構築している。そうやって僕は日々生産性のない記事を書いている。こんなことをやって生活が豊かになることはないし、新しい人脈が生まれるわけでもない。何もない怠惰な文章だけを繰り返し生産している。現実の世界で何者にもなれないから何者かになろうとインターネットでこんなことをしてしまうのだろう。実に滑稽だ。

ウィズコロナの時代……。変わらなければいけないのに何も変えることが出来なかった。行動しなければ変わらない。そう自分に言い聞かせて意識の高いセミナーに行ったことや自己啓発書を読んだこともあった。それで人間変わるなんてことはないことは分かってはいたけども、どうにもならない現状が少しでも変わるかもという淡い期待をしていたのだ。結果はこの通りだ。何も変わらない。

無能な人間は何も変えられない。なぜなら適切な努力ができないからだ。適切な努力をして適切な成功を手にする。そういったごく当たり前のことができないのだ。僕は適切な努力というものが分からない。どうすることが適切なのか。成功とはなんなのか。何一つ思い描けない。このブログを読んでいる皆様は優秀だから適切な努力がどういったものかそのために何が求められているか分かるのだろう。僕にはそれが致命的なまでに分からないのだ。

だから僕は無能な人間なのである。変化に適応できない低スペックな人間。それが僕だ。ここでの「低スペック」は自己評価だけではなく他者評価の意味も込められている。最初の方に書いた現実で何者にもなれないという言葉。そこにはそういう意味合いも含まれている。どういった点で低スペックで、どう社会で失敗してきて、どうなったかなんてことはもっと正確に書くことができるがそれは僕がもっと自暴自棄になった時にでも書くことにしたい。恥ずかしながらこうやって長く生きた痕跡を残しているとそれまでつくってきたものをみだりに壊したくないという愛着のようなものが湧いてきたりするのである。そんな愛着なんて生きていく上で何の役にも立たないのに。

社会で生きていく上で幾度となく失敗をしていると、それは環境に起因する問題でなく自分にあるのだと分かる時がくる。その時、僕みたいに能力のない人間は大体こうした現実からよく首を吊ったりしている。だけど僕は生きている。生きてしまっている。ブログを書いていることで生かされている。僕は多分それは良くないことだと思っている。自然なことではないと思っている。その昔どこかで書いたがやはり僕が生きていることは社会的損失に他ならないと思っているのもある。僕は生産性が劣っている。この生産性が劣っている事実は嘘偽りない。社会に損失を与えることはいくつもしてきた。生産性で人間の価値をなんて意見もあるだろう。だが実際の社会はそれを受け入れられるほど豊かでないのが現実だ。僕みたいな人間にも貴重な税金が使われているという現実に皆様は耐えられるだろうか?耐えられる方はそう多くないであろうというのは容易に想像できる。

だからこそ変える必要があった。硬直したこの状況を変える手段としての自死。それが生産性のない人間が取れる手段だ。僕はこの一年間その辺の手段を実行するチャンスがあったにも関わらずそれを怠ってきた。ただただブログというものを書いていた。ブログに逃げてきた。何も変えることが出来なかった。コロナ禍という変化を促す良い機会であったにも関わらず僕は何も変えることが出来なかった。

ただただ生きてしまったという事実だけが残ってしまった。















お題「#この1年の変化