コミュ障だから明日が僕らをよんだって返事もろくにしなかった

何かを創る人に憧れたからブログをはじめたんだと思うよ

そんなものはない

何かを学びたいということは贅沢なのだ

今の時代「なにかを学びたい」そんな贅沢なことをするのはとても悪いことである。贅沢は生産性のある人間の特権であり、そうではない人間はそうでない人間らしく生きなければならない。例えば、僕は無能なのでそのようにあらねばならない。無能な人間は無能らしく生きる。そういう振る舞いをすることが今の時代には求められている。それでも、無能な人間はそうでないかもしれないと「なにかを学びたい」と社会の摂理に抗おうとする。「なにものかになれる」という希望をもって贅沢に手を出そうとするのだ。それが傲慢であるにもかかわらず。

世の中は便利になった。優秀な人間は普通の人間の100倍、1000倍以上の生産性を出します。逆にそうでない人間は普通の0.1倍、0.001倍の生産性も出すことはできません。そうならないための教育というリソースは残念ながら有限です。皆々に平等な投資ができるのならどんなにいいことだろうと思いますが、現実はそうではありません。投資の価値があるものがなにであるかは明白だ。優秀なものに集中的に投資することが正しいのです。そうでないものにコストをかけるということは許されないことなのです。


僕は未だに無能ではない人間になりきろうと擬態しているから「なにかを学びたい」とかいって足掻いている。でもそれも本来贅沢であって本来ならばもっと無能らしく生きなければならないのだ。そうでなければならないのに、僕はそうならず有限の社会資源を食いつぶしている。この聞き分けのなさが僕を無能としてるのかもしれない。この社会で僕のような無能な人間が正しくあるべき姿は無能らしく自死することにある。これ以上社会資源を食いつぶす存在を増やしてはならない。何事も有限なのだから。学ぶという行為は一人では完結せず、必ず誰かの迷惑をかけてしまうものだ。誰かの時間を奪い、誰かの金銭を奪い、そういうものの上に成り立っている。それらを一切還元することのない無能な僕はそのサイクルの中にあってはならないのだ。

唯一僕の学びたいという欲求が叶うならば、こうやって醜く生にしがみつくのやめる術を学びすぐさま実践できたらいいのにな……と強く思う。





#今年、学びたいこと

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