価値のある経験に付加価値があるのであって経験そのものにはなんの価値もない
よくアウトプットが大事なんて言葉をよく聞くんですけどもね、実際問題その情報ってなんの価値もないんですよね。更に言ってしまえば、その情報に至るまでの経験もまた価値がないわけです。
価値のある人間がなにかやるから価値があるのであって、価値のない人間の経験は何の価値にもならないわけです。例えば、テレビに出ている有名人がどこかで食事をしたりすれば「価値のある人」だからその食事に付加価値が付きます。それを僕が同じことやったらどうでしょう?「価値のない人」だからなんの付加価値も残りません。
何かをやったという経験は「価値のある人」がやるから価値が出るわけで「価値のない人」が経験すれば何の価値にもならないわけです。これはなんにだって当てはまります。読書をした際に何か発信しようとするなんてことはあると思います。その情報、体験は自分の言葉でいくら書こうが「価値のない人」がやればなんの価値もない駄文なのです。インターネットの検索を汚染するノイズにしかなりません。これは逆も同じです。価値のない人間が本を書いてもその本にはなんの価値もありません。「価値のある人」が書くから価値が出るのです。
では、その価値はどのように決めるのか。それは周りを取り囲む環境次第です。皆さんはあなたは価値がないと言われたことはあるでしょうか?僕は何度もあります。これが人間の価値というものです。生まれながらにして決まっているのか、その場その場の環境で変化するものなのかは定かではありませんが、人間の価値というものはそうやって醸成されていくものなのです。
僕は残念ながら「価値のない人間」なのでそれまでの人生何もかもに価値がありません。だからその経験も同じように価値がありません。そういうものです。辛いね。
だから僕はアウトプットが大事みたいな文章を見るととてもとても憂鬱になるのですよね…。そういうのが当てはまるのは「価値のある人」の特権であって「価値のない人」には日の目を見ないものだから。価値のある人間になる方法、どうすればいいのでしょうね。
コメントをいただいて考えを整理することができた。
やはり「価値のない人間」ってのは「価値のある人」の邪魔をせずに苦しめということなんだろうなということなんだろうな。今自分のこの考えを撤回することがあればコメントの考えを否定することになるわけですからね。藁を掴むように苦しんで苦しんで死ぬのが正解、そういう生き方しかできないんだろうね。「価値のない」僕は。