コミュ障だから明日が僕らをよんだって返事もろくにしなかった

何かを創る人に憧れたからブログをはじめたんだと思うよ

この社会にノースキルの人間が生きる道はないわけで

誰でもできるということには価値がないということ

今もまだ僕は生きていてブログを書いているわけです。だけどそんなの誰でもできることなわけです。心臓を動かすのも、呼吸をするのもです。そういう行為はこの国ではとても価値のないものなんです。まあ、そういうのが難しいハンディキャップの人もいると思いますが、この国での当たり前の基準に満たないのなら人目に触れるところから出てこないで慎ましく生きるか直ちに死ぬしか選択肢は残念ながらないです。

一部では、こういう人間が生きていることは税金の無駄だから国のために死ねなんて意見もあります。言っていることは強い主張だから身構えてしまいますが、その通りなんだと思います。大抵、この手合いの議論はなぜか賛否に分かれます。まあ、普通に生きていれば死にたくないとか考えるのは普通だから反発するでしょうが。でも、正論というのはそういうものです。そこに事実的な正しさなんて必要ないわけです。例え一部でも相手が納得すればそれはもう正論なわけです。

まあ、そんなわけで社会で生きていくスキルって何だろうなって最近よく思うのです。泥水をろ過して飲み水にすること、食べられる野草と食べられない野草を見分けることができること、マッチやライターを使わずに火を起こせることなどそんなのが社会で生き残るスキルだとか考えたんですけど、なんか違うなって思うわけで…。そうなると、やっぱり社会で生きる力ってコミュ力なんだなっていうのを実感させられます。それがないっていうのはノースキルっていうのと何も違いがないわけですよ。このコミュ力、定義ができれば僕でも辛うじて騙し騙しやっていくことは出来るのですが、いかんせん何を示した言葉なのかわかりません。

で、そのコミュ力とか言うのが分からないから僕もブログを通して何かを身につけるために色々と手を出してきましたが、結局のところ自分の出来ることしかやってないわけです。そこに成長なんてなく、スキルの獲得なんてものもないのです。ましてや、ネットの情報をベースにやっていることなわけだから、誰でも出来ることなわけです。その昔、どこかのインフルエンサーの方が、保育士なんて誰でもできるとかなんとか言って炎上していましたね。保育士って資格とか必要ですけど、なろうと思って個人で身につけられるもの、それって言うのはすなわちノースキルって言いきったわけです。確かにこの国では、博士なんて肩書きの人は社会に必要とされていないし納得してしまいます。

とどのつまり、社会で生きていくためには知識や技能でなくなんだかよくわからないオカルトめいた力の方が優先されるわけです。そうしたオカルト力がない人間は何をどうあがいてもノースキルなわけです。本来、こういった人材は国のために死ねっていうのがこの国の考え方なんでしょうけど、僕はまだ惨めに生きてしまっています。僕はいつ死ぬんでしょうかね?いつまで生きているんでしょうね?

そんなことを考えていたら月曜です。時間だけは無駄に過ぎていくんですね。無常……。